渋沢栄一邸で開催された「日本式バスケットボール」の驚きのルール
「ゴールを動かしてOK」「女子運動会の花形種目」…渋沢栄一邸で開催された「日本式バスケットボール」の驚きのルール
「昭和は野球、平成はサッカー、令和はバスケ」。今や日本で最も勢いのあるスポーツとなったバスケットボールはいかに普及し、技術や戦術はどう進化したのか?「世界の壁」に対して日本が繰り返してきた挑戦と挫折はどのようなものだったのか?バスケットボールの知られざる歴史を解き明かして話題を集めている書籍『バスケットボール秘史 起源からNBA、Bリーグまで』(谷釜尋徳・著)より一部を抜粋して紹介する。
女子競技として始まった日本バスケ
日本のバスケットボールは、男子に先行して女子競技として早々に移入された。
日本で最初の女子バスケットボールの紹介者は、教育者の成瀬仁蔵(なるせじんぞう)である。明治24年(1891)に渡米した成瀬は、有名女子大学のスミス・カレッジやウェルスレー・カレッジなどを訪問した。スミス・カレッジでは、女子バスケットボールの考案者のセンダ・ベレンソンと交流を持った可能性もある。また、留学中には、バスケットボールの考案者であるジェームズ・ネイスミスとともに創案に関わったギューリックとも面会したという。
明治27年(1894)に帰国した成瀬は、アメリカの女子大学で学んだ女性用のバスケットボールを持ち帰り、さらに日本の女性向けにアレンジを加えた。同年、梅花女学校校長に就任すると、同校の女学生に「球籠遊戯」という名称で女子バスケットボールを指導している。ここに、日本のバスケットボールが女子スポーツとして萌芽したのである。
さらに、明治34年(1901)に日本女子大学を設立した成瀬は、同年10月22日に第1回運動会を開き、演目のひとつとして「日本式バスケットボール」を披露した。成瀬考案の日本式バスケットボールとは、どのようなルールだったのだろうか。明治37年(1904)に行われた第4回運動会のルールからいくつか抜粋してみよう(※1)。
(※1)馬場哲雄・石川悦子『日本女子大学の運動会史』日本女子大学体育研究室、1982、p.22
「日本式バスケ」のルール
まず、ボールは「球(フートボール用の)1個」とあり、サッカーボールで代用したことがうかがえる。ゴールは「籠 2個 紅、白 之を支持する竹棒は長さ2間と定む」とある。つまり、紅白の2個の籠を二間(約3.6メートル)の竹棒の先に取り付けてゴールとした。当時の日本ではバスケットボールは屋外でプレーしたため、ゴールはアメリカのようにバルコニーに取り付けるのではなく、支柱にぶら下げる方法が採用されたのである。
しかも、この支柱は攻撃側のプレーヤーの一人が持って立つことになっていて、プレー中に傾けることも可能だった。つまり、支柱係はゴールインしたボールを取り出しやすくするためだけではなく、味方のシュート成功率を高めるために巧みに支柱を動かす役割も担っていたといえよう。ここに、成瀬による女子バスケットボールの日本的改良の跡が見られる。
次に、「戦場は之を3分し」とあり、コートが3区分されていたことがわかる。各チームの人員は3区分されたコート上に配置され、「前中後の3軍は、各其区域外に出づるべからず」と定められ、エリア外に出てプレーすることは禁じられた。この点は、アメリカの女子バスケットボールに見られたディビジョン・ラインの考え方を忠実に再現している。
成瀬が定めたルールのなかには、素早くパスをつないでボールを動かすことを奨励し、ボールのつかみ合いを禁じてラフプレーを抑制しようとする項目も見られる。なお、競技時間は15分間で、今日と同じく、試合終了時点で得点が多いチームが勝者となった。
渋沢栄一邸での初披露
このように、成瀬仁蔵の「日本式バスケットボール」は、アメリカの女子バスケットボールのコンセプトを踏襲しながら、成瀬流のアレンジを加えた競技だったのである。
成瀬仁蔵の日本式バスケットボールが公の場で初披露されたのは、日本女子大学の第1回運動会だった。実は、この第1回運動会は、日本女子大学の校舎から1里(約3.9キロメートル)ほど離れた、王子飛鳥山(東京都北区)の渋沢栄一の邸宅で行われている。当日は、職員や生徒が約500名参加し、渋沢の好意で茶菓子が出される接待もあり、運動会は盛会だったという。
第1回運動会の最大の呼び物は日本式バスケットボールだった。全校生徒のなかから選抜された50名が参加し、紅白の両チームに分かれてゲームが行われた。両軍とも本番までに訓練を重ね、学内で練習試合もこなしたという。迎えた当日、白軍は密かに特訓してきた陣形を敷いて赤軍を翻弄し、この歴史的な試合の勝者となる(※2)。
第2回以降、運動会の舞台が日本女子大学の校舎へと移ってからも、日本式バスケットボールは終盤を飾るクライマックスの競技として格別の人気を誇った。大正9年(1920)の第14回運動会以降は、「日本式バスケットボール」と「西洋式バスケットボール」の両方が演目に組み込まれていることから、今日のバスケットボールに近いかたちの競技も披露されるようになった可能性がある。
(※2)渡邊瑛人「明治期における女子バスケットボールの移入と普及に関する一考察」『TOYOスポーツセンター紀要』1号、2024、p.22
次回記事『オリンピックで採用されるはずだった「身長制バスケットボール」が幻となったワケ』へ続く。
谷釜尋徳 HIRONORI TANIGAMA
スポーツ史研究者/東洋大学法学部教授
1980年、東京都生まれ。2003年、日本体育大学体育学部卒業。2008年、日本体育大学大学院博士後期課程修了。現在、東洋大学法学部教授。博士(体育科学)。主な著書に『歩く江戸の旅人たち』、『江戸の女子旅』(以上、晃洋書房)、『スポーツの日本史』(吉川弘文館)など。好きなバスケ選手は、ケビン・デュラント(NBAフェニックス・サンズ)、ブレアナ・ステュアート(WNBAシアトル・ストーム)。現役時代のポジションはパワーフォワード(PF)。