大阪府のバスケットボール情報サイト | BackCourt(バックコート)

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原料と気力のご利用は計画的に

2021/09/22 02:29
  

こんばんは、部活後に合成実験をしようと思ったら原料が足りず萎えそうになったはるかです。今晩の実験の結果によっては今週の実験計画が全ておじゃんになるのでは無いかとビクビクしながら夜を過ごしています。

そんな話はさておき、やっとこさマネージャーになってからのことを振り返ってみようと思います。
前回2回分についての感想も色んな人から頂き、あんなクソ長い文章を読む物好きが多数いたことに驚きを隠せません。ありがとうございます。下級生は是非反面教師にしてください。

高2の10月に晴れてユニフォームを脱ぎ捨てることに成功し、マネージャーへと転向した西脇でしたが、そこからも紆余曲折がありました。
まず、一緒にマネージャーをするつもりだった同期2人(元からマネージャー)が私と入れ替わりのタイミングでチームを離れてしまいました。1人は休部、1人は退部。
いやちょっと待ってくれ、私はバスケの経験はあるけどマネージャーとしては初心者も初心者だぞ。え、1人でほっぽり出されるの?さすがにそれは想定してなかったんだけど?もしかしてアレか?私がマネージャーになるとか言ったからか???
てっきり3人体制でやると思っていたところに薮から棒で大困惑したことを覚えています。
「もしここで私が気が変わって、やっぱマネージャーせん、ってなっても辞めるん?」とか聞いたりもしました。(自分辞めるつもりしてるのに他人引き留めるの今考えたらだいぶ阿呆ですが)でも返ってきた答えは「いや、それでも辞める」「勉強に時間を使いたい」
曲がりなりにも進学校だったので「勉強がしたいから部活を離れる」と言っている同期を無理に引き止めることも出来ず、敢え無く敗北。ワンオペでのマネージャー生活がスタートしました。

いくら試合の時より普段の練習は暇とはいえ、1人では手が回らない部分も多く、4月に休部していた同期が戻ってきて、2期下に後輩が入るまではずっともどかしい思いを抱えながらマネージャーをしていました。分身の術でも使えればな、と何度思ったことか。お茶汲みに行く私、24秒計する私、審判する私、3人ぐらいいたら足りるかな。でも残念ながら忍者じゃないのでそんなことはできる訳もなく、どれもこれも中途半端。その中途半端さからでしょうか、最後の公式戦でさえも「やりきった!」感を感じることはありませんでした。

「あれもしてあげたかったな」
「こんなことも出来たんじゃないかな」
と思い残す所しかない引退でしたが、大学の体育会系部活について全然知らなかった私は、その思い残しを箱に詰めて心の奥底にしまいました。

それから約1年後、阪大女バスに出会ったことで、再びその「思い残しの詰まった箱」を開けることになります。

私が女バスを知るきっかけは、なんとバスケ部でもなく阪大生でもない高校の友人からもたらされました。
暇を持て余した入学直前の春休み。当時からツイッタラーだった私のTLに飛び込んできたのは「大阪大学女子バレーボール部」の文字でした。「新入部員募集中!」そう書かれたツイートをRTしていたのは元バレー部な高校の友人。(私の1つ上の先輩が女バレにいらっしゃった模様)そこで初めて私は「大学にも部活とかあるんや」と知りました。「バレー部あるならバスケもあるんちゃうの?」
思い立ったら即行動、女バスのTwitterを探し出し、陰キャ感丸出しのDMで連絡を取り……初めて見学に行ったのが3月半ば。迎えに来てくださったおとさんがめちゃくちゃオシャレ過ぎて「大学だと女子部でもマネージャーはキラキラしてるんだ……」とビビり散らしたのを覚えています。(すぐ後に、たまたまその日オシャレしてはっただけと発覚するのですが)

私が見学に行った当時はマネージャーが5人。全員で連携しながら仕事を回す様子を見ながら、「ここでなら、高校の時にやりきれなかったことも出来るかも」という気持ちが湧いてきました。
私はほぼ即決でマネージャーとしての入部を決め、同期プレーヤーもだんだん増えて。マネージャーは私1人だけだったけれど、愉快なプレーヤー5人と共に確定新歓の日を迎えました。

1回生のリーグが終わるまでは、人的余裕もあったし、1番下っ端である意味責任も何も無いポジションだったので、時々自分のポンコツさにガッカリしたりはしながらも気楽〜にマネージャーをしていたように思います。高校の時のような「あれもしなきゃ、これもしなきゃ、なのに手が足りない!」なんてもどかしさもなく、歴代の先輩方が作り上げてくださったマネージャーの連携体制の隅っこにちょこんと収まっていました。

だんだんとしんどくなり始めたのが先輩方が引退された後。それまで6人いたマネージャーが一気に3人に減って、でも仕事量は減らなくて。申し訳ないなと思いながらもコートに出ていない同期に色々と仕事を頼んで。あれ?これ高校の時の繰り返しじゃない?そうこうしているうちに、おとさんが休部されて、主務が突然降りてきて。慣れないメールのやり取りをして、まりえさんと一緒に2人だけになってしまったマネージャーで何とか練習中の仕事を回して。「もしおとさんが帰ってこなくて、一つ下にマネージャー入らなかったら私一人になっちゃうんだな」なんて最悪のケースの想像もして。でもこの時は「辞めようかな」と思う所までは行きませんでした。

1回生の春休みが終わって、おとさんが戻ってきてくださって、ゆいかさんも留学から戻ってこられて4人体制になり、少しほっとしたのも束の間、次なる壁「七帝戦」がやって来ました。

1年生の時は、先輩が意図的に仕事を軽くして下さってたのもあり、割と同期とわちゃわちゃしたりする余裕があって「楽しかったな〜」で終わった七帝戦でしたが、自分が主体となって仕事を回す側になって挑む七帝戦はかなりしんどかったです。先輩方の授業の都合がつかず、初日は2人で駆けずり回って、ホテルに帰った後もビデオしか撮れてないスカウティングを処理して(当時はまだアナログだったので)自チームのスコアも手作業で処理して、なかなか上がらないビデオに悶々としながらコンビニ飯を食らっていました。今LINEを見返すとドタバタコメディーみがあってゲラゲラ笑ってしまうのですが、当時はかなりげんなりしていました。めちゃくちゃ洗濯とビデオに振り回されてるな。思い出すだけでなんか疲労感がしてきたぞぅ。

そして完全に燃え尽きてしまったのがリーグ戦。ただ、これに関しては人数とか環境とかのせいではなく、私が勝手に自爆しただけです。主務としての初めてのリーグ戦でかなり空回りをしてしまいました。「自分でやらなきゃ」「先輩に手間かけさせる訳には」そう自分に言い聞かせてパンク寸前まで仕事を抱え込んで。先輩達が「大丈夫?手伝おうか?」と言ってくれてるのも聞かずに勝手に1人で突っ走って、しんどくなって……大人しく先輩たちに助けてもらえば良かったなと、先輩になった今になって思います。
反省した所で燃え尽きてしまったものは戻りません。高校で燃やし損ねて、大学で時間をかけて燃やそうと思っていた思い残しの残りカスを私はこの時全部燃やしきってしまいました。

これ以上燃やせる燃料はない。でも引退まではまだ2年ある。2年かぁ長いなぁ。どうせ研究室で忙しくなるだろうし3年辺りでフェードアウトしようかな。誰かさんが聞いたら失望されそうですが、そんな気持ちでだらだらと惰性だけで2年生の後半を過ごしました。

そして2020年春。コロナ禍で活動停止。

プレーヤーの皆はコロナのせいで心が折れてしまいそうになったり実際折れてしまった部分があったみたいですが、私はここで強制的に部活から引き離されたことで4年生の今まで部活を辞めずに済んだ気がしています。活動停止期間がひとつの休養期間になったというか。活動が再開された時にはちゃんと「このチームと一緒にいたいな」と思える状態に戻っていました。

幸いなことに二個下ではやすほがマネージャーとして入ってくれて、約2年間務めた主務の重荷も降りて、そこからはもうはじめの頃と同じように自由気ままに過ごすことが出来ました。自由にやりすぎてひなたややすほには結構迷惑かけたかも。ごめんなさい。特にやすほには「やっときますよ〜」の言葉に甘え過ぎたかもな、という気持ちがあります。

4回生になって、時間的な制約から部活に行けない日が増えました。てっきりモチベ下がるかと思いきや、意外とそんなことはなかったです。お陰様で院試前日も試合に行ってました。(先生にバレたら間違いなく怒られ案件)

大学でのマネージャー生活の心残りは、先輩達と居た時はマネージャーがしてたはずの仕事をプレーヤーに投げたままになってしまったことと、プレーヤーの良き相談相手になれなかったことです。人数が少なかったんだから仕方ない、相談相手になれるほど精神的な余裕がなかったんだから仕方がない、と言ってしまえばそれまでなんでしょうけれど。前者に関しては入部当初の自分を裏切ってしまった訳なので、多分ずっと心の底に「結局出来へんかったなぁ」という気持ちが残り続ける気がします。後者は「まあそりゃそうでしょうよ」の気持ち半分、残念に思う気持ち半分です。人の話ちゃんと聴ける人になりたかったな。

最後に私のマネージャーとしてのポリシーの話をして終わりにしたいと思います。
私が思うマネージャーの仕事は「プレーヤーがプレーだけに集中できるようにすること」です。今はマネージャーの人数が少ない(し私が更に少なくしてしまってる)ので、5on5のライン審やタイマーなんかをプレーヤーにやってもらうことも多いですが、人手が叶うならそれら全てをマネージャーがやって、プレーヤーにはプレーの事だけ考えていて欲しい。試合の時だって、本当はボトルやアシスタントスコアラーを1回生に手伝ってもらったりせずに、プレーヤー全員がコート上に集中して、他のことはマネージャーがやるべきだと思っています。今は人数上叶わないのでお願いしていますが……
「1回生だし手伝ってくれて当たり前」と思わないようにしたいと思います(自戒)

幸いなことに1回生マネージャーが3人も入部してくれるとの事なので、プレーヤーにお届けできるサービスも向上することでしょう。
「あんまり人数多いと暇になるんちゃう?」安心してください、マネージャーの仕事なんて増やしだしたら無限増殖するので。(程々にしようね)(人が減ったあとがしんどい)

これをもって私の過去回想編は終了です。全部書き出しきったらスッキリした、ようなついでに思い出したくなかったことも思い出してしまったような。このなんとも言えずほろ苦い思いは墓場まで持っていきます。

バスケ始めてからの回り道だらけの10年間、笑ったり泣いたり泣いたり泣いたりしてきましたが、自分がしてきた選択に後悔はないです。だって高校で最初からマネージャーをしていたら、あるいはプレーヤーとして最後まで走り抜けることが出来てしまっていたら、私は女バスに入ることなく、学部もバスケ以外の趣味も全然違う、あかね、きい、きょうこ、りな、ゆう、ひなたと出会うことも無いまま大学4年間を過ごしただろうから。あそこで、あのタイミングでプレーヤーを辞めて、そして先生がマネージャーという道を提示してくれたから、今の私がここでブログを書いています。

何より同期達が私のことを褒めておだててそやしてくれたおかげで4年生までちゃんと(ちゃんと?)走ってくることが出来ました。本当にありがとう。これからまだあと少しよろしくね。

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