隙(があったので)自(分)語(り)
プレーヤーのシューティングに交じって3Pシュートを打ったらぎっくり腰になってしまった西脇です。寝ても醒めても痛くて結構辛いです。プレーヤー時代も腰は怪我したこと無かったような……?歳ですね。
引退が目前に見えてきて、自分の部活人生を振り返ることが多くなり、一つ書き残して置こうかなと思う記憶があったので書いてみます。つまるところ自分語りです。きっと10年後には黒歴史になることでしょう。
将来的に私と似た境遇になった人の参考になれば嬉しいです。
今からちょうど5年前、私はプレーヤーを辞めました。「高校の途中からマネージャーしてて〜」という話は自己紹介の時にもしばしばしているので下級生もこの辺りは知ってるんじゃないでしょうか。ただ理由まではあんま喋ってないので「怪我でもしはったんかな」とか思われてるかもしれません。
実際の辞めた理由は「これ以上プレーヤーとしてユニフォームを着続けることがしんどくなってしまったから」
捻挫が多かったり、フォームの悪さから来る膝痛だったりの小さな怪我やなんやはありましたが、プレーが出来なくなるほどの致命的な怪我もないまま、ただただ「自分がしんどいから」という気持ちの理由だけで辞めました。「バスケがしたくてしたくてたまらないのに怪我のせいで出来ない」って人からしたらしばき倒したくなるような理由ですが、まあ精神的な理由も言ってしまえば「心の怪我」みたいなもんなので仕方ないですね(開き直り)
さて、「ユニフォームを着続けるのがしんどい」と思うほどに精神的に追い詰められてしまった経緯について書く前に少し当時のチームの状況について説明を。私のいたチームは、自分の代がプレーヤー7人マネ2人、1つ下がプレーヤー10人の、高校女バスにしては大所帯なチームでした。大会規定上、ベンチに入れるプレーヤーは15人までなので、毎回2人はマネージャーとして入るか、上から応援してるかでした。そんな中私は(2年生という学年上)8番のユニフォームを着ながらもほとんど試合に出ず(8試合ぐらいあったはずですが、全て合わせて10分に満たないと思います)(当然写真も1枚も残ってない)ただベンチを温め声援を送ることしか出来ませんでした。コート上でチームに貢献することが出来ないもどかしさと、ベンチにすら入れない1年生達に対する申し訳なさとに耐えきれなくなり、「エントリー上間に合う試合からでいいのでベンチメンバーから私を外して代わりに今入れていない1年生を入れてあげて欲しい」と顧問の先生に頼みに行ったのがちょうど5年前の今頃。その時は、自分がベンチメンバーになっている最後の試合をもって、部活ごと辞めるつもりで言いに行きました。ユニフォームは貰ってるのに試合に行かないのはそれこそ貰えてない子に失礼だと思い、それまでは何とか、という心持ちでした。
先生に辞める相談をした時に言われたのが、「ユニフォームを脱ぐことと、プレーヤーを辞めることと、部活を辞めることを一旦分けて考えよう」ということです。直接的にこう言われた訳では無いですが、それぞれの段階についてカウンセリング的に話してくださった記憶があります。今ユニフォームが貰えていない1年生ではなく私にユニフォームを渡しているのにはちゃんと(学年以外の)理由があること、それを踏まえた上でもやっぱりユニフォームを手放したいかどうか。ユニフォームを脱いだとして、そのままプレーヤーを続ける道もあるが、それはどうか。プレーヤーを続けるのがしんどくても、マネージャーとしてチームに残る道もあるがどうか。それとももうチームすら離れたいのか。
「試合に出る」という目標を断った状態でプレーヤーを続けられるだけのモチベーションはなかったので、残った選択肢はマネージャーとして残るかチームを離れるか。チームは大好きだった私にとって(だからこそ貢献できないことが辛かった)マネージャーという道はすごく魅力的に見えましたが、「この選択を他の同期は受け入れてくれるのか?」「なんかごちゃごちゃ言われるんやない?」という不安もよぎりました。しかし、先生の「あの子らがそんなこと言うと思う?」との言葉でやっと決心が付き、プレーヤーからマネージャーに転向することにしました。
今思うと自分最低野郎だったな〜と感じるのが、ここまでの過程で一切同期に相談をしなかったことです。普段報連相しろ!報連相しろ!!言うてる癖に、5年前の私は報連相出来ない子でした。後頭部に特大ブーメラン刺さっとる。まあシンプルに引き留められるのが怖かったからなんですが。引退の時に貰った手紙にも数人から「もっと早くに相談してくれてたらな」と書かれていて、ごめんなさいの気持ち半分、やっぱ相談せずに自分で決めて正解やったなの気持ち半分(最低)になりました。ただ、いざ引き留める側に立つと、「わ〜昔の自分最低野郎だな〜」ってなりますね。ちゃんと相談してやれよな昔の自分。相談されなかった側も結構傷つくぞそれ。
マネージャーへの転向を決心したあと、これが最後と心に決めた秋の大会では、初戦で少しだけ出場機会があり数分ほどコートに立ちました。が、中学からの5年間の中でおそらく1番カスみたいなプレーしか出来ず、一周まわって「やめだやめだ!もうやーめぴ!」のお気持ちになって未練もなく終わりました。(ダブルミーニング)
そこから5年間マネージャーをやっていますが、1度も試合でプレーしたいと思うことはなく(シュート打ったりはしますが)辞めたこと自体を後悔したこともありません。
鬼のように長い文章になってしまいましたが、私がこの一件で得た教訓は
①可能なら周りの人に報連相したほうがいい
②辞める理由を他人に置かない(「自分が」〇〇だから、という理由ならあとからうじうじしない。自分が決めたことだもの)
③やりきった、もう十分だと思ったならそこで辞めても後悔はしない
ということです。私は①はちゃんと出来ませんでしたが(そのことについて多少後悔はしています)②③のおかげでその後前向きにマネージャーをしてくることが出来ました。
読者の皆様も、もし何かを辞めたいな〜と思った際は少し参考にしてもらえればと思います。
本当はマネージャーに転向してから大学マネージャーになるまでのことも書こうと思ったんですがあまりにも長すぎるのでそのうち次のブログで。
ではまた。