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KIKOコーチブログ13

提供元:SKILL ELEMENT
2020/06/08 21:41
  

高校1年生の半年で大きな挫折を味わった私でしたが、それはまだ始まりに過ぎませんでした。
普段の練習では、声が出てないから舞台の上で3時間声出し、誰かひとりでも生活態度が悪いと連帯責任でグラウンドを終わりなく走り続ける、試合前になるとBチームは練習に入れないのでコートの周りでずっと声出し、などなどそれまでレギュラーから外れたことのなかった私には信じられないことばかりで、バスケをできない日の方が多かったです。
そんな毎日が続きながらも、コーチに言われた言葉を糧にとにかく精一杯、一生懸命することだけは力を抜かずに頑張りました。



でも、気持ちがついていかないこともたくさんありました。
私が1番覚えているのは、高校1年生のときに行った岐阜遠征です。12月のウインターカップから帰って年明けすぐにチーム全員で岐阜遠征に行きます。それは私が初めて行くことのできた遠征でした。なので、私は遠征に連れていってもらえることがただ嬉しくてもしかしたら少しは試合を経験できるのでは、、と甘い考えをしていました。
だけど、そんなに甘い世界ではなかったです。遠征に行っても身の回りの仕事でした。試合のビデオを撮ったり、体育館にも入れず洗濯をしたり、入れたと思ったら私が走っていたのはコートの中ではなく、ギャラリーでした。
同級生もほとんどの人がプレータイムをもらえてる中で、私が岐阜遠征中にもらえたプレータイムは20秒ほどだったと思います。ワンミスですぐ交代でした。(ミスしたら交代するのは薫英では当たり前でした。)
バスケができない、プレータイムも掴むことができない、そんな状況にいることが耐えられなくなって、夜の洗濯の時間に母に泣きながら電話しました。また弱音を吐いてしまいました。「帰りたい、やめたい」それしか電話で言ってなかったと思います。電話して少し落ち着いて、目の前にある自分の仕事を精一杯してその岐阜遠征も終えました。

ここで、私の母と家族の話をしたいと思います。
私が薫英にいた3年間、母は(家族全員)私に「頑張れ」という言葉を1度も言ってきませんでした。後で聞いたら『稀子の頑張ってる姿をみて、それ以上頑張れなんて言えなかった。薫英にいる間は頑張れという言葉を封印すると決めた。』と言っていました。たまに私が号泣して話すと、絶対私の気持ちを否定せず私の味方で話を聞いてくれました。それが私にとっては救いだったと思います。だから頑張れていました。
薫英の3年間は毎日4時に起きて私のお弁当、軽食2食、水筒も氷も用意をして、寮生活のメンバーのお弁当やおにぎりを10人前くらい作って持たせてくれることもよくありました。私が始発で行っても到着が6時半になるので6時から練習を始めたい私の為に週に数回、生駒から摂津の高校まで送ってからフルタイムの仕事に行ってました。
この朝の送迎は卒業までの間お爺ちゃんも週2回協力し続けてくれました。
薫英に入ってから2年の終わりまでは、毎週水曜日仕事終わりに学校に来て練習の終わる20時過ぎまで待って、SKILL ELEMENTSの王寺校まで高速道路を飛ばしてKANコーチと話して私の気持ちがリセットできるように、スクール終わり10分前にギリギリ到着できるようにしてくれていました。その時は自分のことで精一杯だったけど、今から思えば感謝しかありません。小さい頃から私がやりたいと言ったことを何でもやらせて、プレッシャーも与えずただただ応援してくれる両親なので、その時は気持ちの弱くなる自分が申し訳ない気持ちもありました。だけど私の家族はずっとこんな自分を支えてくれて、私の将来の夢も応援してくれる。だから「いつか夢を叶えたところを見て次は喜ばせて恩返しがしたい」と思ってまず目の前にある毎日を頑張りました。高校時代の家族のおかげで将来の夢への気持ちがさらに大きくなったと思います。




次は私が初めてユニフォームを貰えたことの話です!

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