しっかりと喜び、しっかりと悔しがる
うれしいときはしっかり喜んだ顔をしたり、
リアクションをするとさらに喜べることがやってくる。
うれしいことに恥ずかしがっていないで、
喜びは相手のためにもなり、
素直に喜べる人に幸運はやってくる。
日常で気になったいろんな人の言葉を
ケータイのメモ書きによく残しているんだけど
これはその中のひとつで
事あるごとに、だよね、と心に刻むようにしている。
別に「誰かのために喜ぶ」のではない。
「しっかりと喜んでいる人」を見ると
ただそれだけで、すごく心が救われたりする。
それに自分が関わっているか否かは関係なく。
久しぶりに高校野球を観た。
テレビでだけど。
そこには
しっかりと喜ぶ顔と、
しっかりと悔しがる顔しかなくて、
それだけで心が救われた。
昨日は尼崎の中学生が練習に来てくれた。
本当に、本当に、本当に可愛すぎて、
来てくれて、一緒に練習してくれて、本当にありがとう!の気持ちが、私の中に溢れるわけ。
あー、やっぱり部活って楽しいなー、バスケットはおもしろいなーと、幸せな気持ちにしてもらえる。
何がそう思わせたか、ということで言うと、
そこには、すごく楽しそうで、すごくがんばっていて、すごく悔しそうで、すごく嬉しそうっていう、一個のボールをめぐる感情モロだしの中高生のワチャワチャがあるから。
「しっかりと喜び、しっかりと悔しがる。」
そういうごまかしのないピュアな感情がたくさん溢れている。
これはもう、何とも表現し足りないほどの幸せな感情の「ギフト」なのであって、それらが私の心に湧いて溢れた。
一方で
それってハードルが高かったりすることもあるの?
ある。
その正体って、
例えばどっちかに針が思いきり振れる自分を表現した途端、自分の立ち位置が他の人に明らかに知られ、それが妙に怖かったりするからだろうか。
でも
しっかり喜んだり悔しがったりする事に計算なんて本当は全く要らなくて、
他人がどう受け止めるかとかの前に
自分自身がホントの気持ちにガッツリ向き合うキッカケになると思っている。
あー、わたし、すごく嬉しいんだ、とか
あー、これってわたしにとって、悔しい出来事なんだ、とか。
それをきちんと知ってからじゃないと、
次の確かな一歩は踏み出せないことが多い気がする。
それとも、
そもそもそのことは
心の針がちっとも動かないような
私にとって「それほどでもないこと」な場合もあるのだろうな。
確かに。
関心の薄いことには針は動きようがない。
だから、自分の世界を拡げていくためにも
針がぶるっと震えるようなものとの出会いは
そのタイミングも含めて本当に大切だと思う。
自身の心の変化にたくさん出会えたらいいなと思うし、ふとした時の「嬉しい」に敏感でありたい。そしてふとした時の「悔しい」をあまり封印したくは、ない。
明日から夏合宿に出かけます。
例年より少し短縮の二泊三日です。
場所は例年通り、岡口屋さんにおせわになります。
体育館は大屋B&Gさんをお借りします。
休館日なのにあげてくださいます。
感謝しかありません。
冒頭にあげた文章は
いちばんは今の選手に伝えたいこと、です。
嬉しいんだか、悲しいんだか、楽しいんだか、
なかなか表現するのが苦手、という、
今年はちょっと今までとは違うキャラクター揃い。
「体力的にキツイ、、、」これを伝えてくるのは、、、上手い 笑
明日からの合宿。
バスケットの技術やチームとしての練習の充実はもちろんのこと、本当に広い意味でのコミュ力を身につけるきっかけにしてほしいな、とも思います。
昨年は、出発前日に県の部活動の活動規制がでて合宿は中止でした。
一昨年は、いろんな方々にお世話になりながらコロナ禍で合宿ができました。
その前までは、毎年、チームが大きく変わるきっかけになるような経験を積んできました。
たくさんの方々の「応援」に応えたい。
今年も、そんなふうに思います。
今日は長文になりました。
読み返したら、読みにくい。
でもそのままのことなので、そのまま載せますね。